お笑いタレント



主にテレビ番組において面白いことを言うなどして視聴者等の笑いをとる役割を担うタレント。
喜劇役者・コメディアン、落語家・漫才師/漫談師・コント俳優・声帯/形態模写芸人・奇術師・コミックバンドメンバー、歌手などの芸域のどれかに属しています。 日本国内のテレビの普及に伴い、もともと舞台をはじめとするさまざまな場所でさまざまな仕方で活動してきた人々がテレビのバラエティ番組に活動の比重を移すにつれ、彼らを総称する呼び方が必要になったため生まれた言い方です。 したがって、お笑い芸人の走りはテレビ放送が始まった当初から存在していました。

お笑いタレントを目指す人は数多くいますが、デビューできるのはほんの一握り程の者だけであり、デビューしてもテレビ番組に出演できるお笑いタレントは少数の厳しい世界である為、デビューして出世、成功したお笑いタレントはほんの一握りしかいません。 この為、いい思いをしてきた大御所芸人でさえ弟子入り志願者に対し上記の理由を挙げ丁重に断る場合が多いとされています。 売れても休みもほとんどもらえず、若手だけでなくそれなりに顔が売れている中堅芸人でさえも休暇を請求するとマネージャーなどにお叱りを受ける場合もあるそうです。 また過労やアクシデントで負傷しても大手企業のサラリーマンのような潤沢な福利厚生は受けられず、会社によっては自己負担になる場合もあるようです。(雇用関係がないので社会保険がない)。 デビューするにはNSC等の芸人養成学校、専門学校に入学、師匠と呼ばれる先輩に師事し弟子入り、面接によるオーディション、スカウトはあるもののネタ見せで認められてのもので外見がおかしい、顔が面白い等の理由で路上スカウトを受けたという例は無いようです。 お笑い芸人のコンビ仲は、競争意識の高さから「隣の相方が一番のライバル」と呼ばれ、昔から『仲が悪くないと、売れない。』と言い、舞台では丁々発止のやり取りをするコンビも楽屋では雑談もせず、他の芸人の楽屋に入り浸りというのも珍しくありません。近年のお笑い芸人の志向も変わり、おぎやはぎによれば昔は司会者や冠番組を持とうと殺気に満ちていたり、ライバル意識丸出しの芸人ばかりだったが最近では2番手や所謂ひな壇芸人志望で、丸く収め安定志向と言う芸人が多いそうです。

また、俳優同様、伝統的に政治的発言は将来の仕事の幅や一部の消費者離れを恐れて政治色をあまり出さない傾向にありますが、東日本大震災、福島第一原発事故後、福島県への支援、被災した瓦礫の処理を巡りブログ、ツイッター等で政治意見を述べるものもいるが、名声があり政治活動として一方向に意見が偏ることを恐れる層や社会貢献が比較的薄い事から「所詮は社会に何も貢献してない『芸人ふぜい』」「電波芸者、一つも笑えない」と中傷される等、炎上することも多く、これを期に閉鎖する芸人もいましたが、2000年代のお笑いブームの頃、社会現象が飛び交ったもので笑い者にできることでは番組やネタで述べられ、ウケればなんでもやってもいいという風潮に報道番組にニュースのバラエティー化に拍車がかかりました。 お笑いタレントの人の数を性別に分けると男性の方が比較的多く、近年では脱サラ、俳優、女優、エキストラ、宝塚歌劇団を早期に退団した女優、歌手、アイドルなど芸能界からの転向の他にスポーツ選手、公務員、青年実業家、果ては歳の離れた親族、教職を定年退職後に余暇として芸人に転向するなど、『人気転職先』としてお笑いを選ぶ異色の経歴を持つ人も増えているそうです。.


地鎮祭、棟上げ式

地鎮祭や棟上げ式といった行事は、名前を聞いたことがあってもどのようなものか分からない人も多いと思います。家を建てたときに1度経験しただけで、何をしたのかすでに忘れてしまった人も多いでしょう。
地鎮祭は、工事が始まる前に、土地の神様の怒りをしずめ、工事の無事を祈願する行事です。これから家を建てる場所に祭壇を設置し、神主さんに来てもらいます。地鎮祭には、施工主のほか工事関係者も参列し、神主による祝詞の奏上など決まった儀式が行われます。ハウスメーカーによっては、建設工事費に地鎮祭の費用が含まれていることもありますが、神主さんへ支払う玉串料などの相場は3~5万円程度です。その他に、お供え物の費用や、テントや祭壇などのレンタル費用もかかるので、合計費用は10~20万円程度となることが多いようです。
棟上げ式は、上棟式とも呼ばれ、工事途中に建物の骨組みができた後、棟木を取り付けて補強を行う際に行う行事です。内容はお金や餅をまくことが多いようですが、工程と行事日程の調整が大変なので、地鎮祭と比べると実施されることが少ないです。

お笑いBIG3  -明石家さんま-



1955年7月1日生まれ。本名:杉本 高文。
1980年代後半以降から国民的お笑いスターとして活躍を続けています。 タモリ、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称されています。 事務所は吉本興業所属。 節税と自身のマネージメントを目的とした個人事務所「オフィス事務所」も設けており、仕事やギャランティー管理はこちらで行っています。 オフィス事務所にはラサール石井や村上ショージ、松尾伴内らも所属。 師匠は落語家の2代目笑福亭松之助。 若手の頃、兄弟子の五所の家小禄と漫才、コントのコンビを組んだり花月の舞台ではB&B、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちらと、「ビールス7」というコントユニットを組んでいた時期もありました。「アトムスリム」と言う漫才コンビを組んでいた時期もあります。

現在では司会業が中心で、20年以上続く番組もあります。 聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴があります。 トークのテンポに関してはこだわりを持っており、テンポを崩されるとすかさずツッコミやボケを入れます。 例えば、番組中に質問した際に相手が考え込んでしまうと、たいていは「早よ言え」などとツッコんだり自らボケを挟んで笑いを取りにかかります。 声を張って笑いをとる張り芸を得意としています。 デビュー当初は菅原文太のものまねや、当時人気だったプロ野球・阪神タイガースの小林繁の形態模写や漫談が主でした。 実母とは死別、1983年4月に弟が火事で焼死、実父は2006年2月4日に死去。実父はさんまが芸能人になるのを反対していたようでしたが、さんまが売れた後「カラオケスナック・さんま」を開店。 電話で本名の高文でなくさんまと呼ぶようになり、さんま本人はショックを受けたと述べています。 さんまは実家を出たあとまったく実家に帰っていなかった時期があり、父親はさんまに会うため吉本興業に電話してさんまの余興を依頼。 実兄は競馬好きで菊花賞の関西テレビの映像に映りこんだことがあり、番組を見ていたさんまは一目見てすぐにそれが兄だとわかったそうです。

1988年9月女優の大竹しのぶと結婚。 長女・いまる(後のIMALU)が誕生しましたが、1992年9月に離婚。 子供には「お父さん」と呼ばせず「ボス」と呼ばせています。 本人はその理由を常々自分という人間は父親という器ではなく、昔から「ボス」と呼ばせるのが夢だったと語っています。 ただし、これにはさんまを「お父さん」と呼ぶことに抵抗があるかもしれない長男・二千翔(大竹しのぶの連れ子)への気遣いもあると大竹が著書で語っています。 そんな二千翔はさんまと母しのぶとの結婚当初から彼に大変なついており、離婚の際も「ボスの方に行く!!」と訴えたといいます。 さんまによると、長女・いまるの名前も座右の銘「生きているだけで丸もうけ」と「1=いまる・2=にちか・3=さんま・4=しのぶと並ぶようにした」から名付けたといいます。 それに対して、大竹は「今を生きるから名付けた」と言っています。 テレビなどでは名前が公表されているにもかかわらずさんまの番組などでは顔出ししたことがありませんでしたが、2006年大竹が出版した自叙伝の中で二人の顔が初めて公開されました。 『27時間テレビ』・今夜は眠れないのコーナーで、大竹や長男とともに電話出演が一度あります。いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界デビュー。 IMALUが20歳を過ぎるまで再婚はできないなどと言っていましたが、2010年7月24日『FNS26時間テレビ2010』内「さんま・中居の今夜も眠れない」において島田紳助から「いい加減、結婚しろ!孤独死は切ないで」と再婚を促されると「もう結婚はあきらめた!結婚不適合者だとわかった」と再婚を断念する発言をしています。


お笑いBIG3  -ビートたけし-



1947年1月18日生まれ。本名:北野武。
1980年代初頭に起こった漫才ブームの中で社会風刺を題材としたシニカルな笑いツービートで人気を獲得。 フジテレビTHE MANZAIやその後継であったオレたちひょうきん族らに出演し番組が大ヒット。 お笑い芸人のみならず、日本のテレビ界を代表するタレントとなります。 一般人、芸能人(特に後輩芸人)問わず未だに発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人。 現在では司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組があります。 司会者として、聞き手に回りながらも相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴があります。
映画監督時や『平成教育委員会』などの番組では本名の「北野武」名義を用い、他の番組では芸名の「ビートたけし」でタレント活動しています。 これに関して、2010年5月9日放送『平成教育委員会』では、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べています。

たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べています。
たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレントやたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーやハリセン、メガホンで叩いて笑いに変えることがあります。 これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ています。 このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手またはロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも結果的にツッコむことができるのでこのツッコミをマネする芸人もいます。

また番組冒頭で「というわけで…。」というセリフと共に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎませんでしたが、現在ではバラエティ番組などで当たり前のように常用されています。 ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルなど、広くドキュメンタリー番組が好きでよく見ているそうです。 これに関連するエピソードとして、2003年偶然に見ていた浅草喜劇について扱ったヒストリーチャンネル制作のドキュメンタリー「20世紀のファイルから-証言・あの時、あの人-(第40話)お笑い人生ここにあり」で、たけしが若い頃によく通っていた浅草の居酒屋が番組に登場し、この店では多数の芸人がサインを壁に直接書いているがたけしのサインが無かったため、店の主人が他の芸人が壁をサインで埋め尽くしてしまわないように店の壁の真ん中の箇所に額を掛けて、長い間たけしのサインのためのスペースを空けて待っているということを番組を見て初めて知り、この番組の初回放送の終了直後に弟子を連れてこの居酒屋を訪ねて店の壁にサインをしています。

ニッポン放送『オールナイトニッポン』にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしています。さらに「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べていました。


お笑いBIG3  -タモリ-



日本のお笑い界で最もテレビ関係者や視聴者から人気と実力のあるお笑い第二世代のトップクラスお笑い芸人であるタモリ・ビートたけし・明石家さんまを表すもので、漫才ブームなどによってバラエティ番組でのお笑い芸人のテレビ番組での露出が飛躍的に増えた1980年代(昭和50年代中頃)から使われるようになりました。
最初は(1980年代前半 – 1985年頃)、萩本欽一・タモリ・ビートたけしの3人だったが、1985年に萩本欽一が突然休養したことにより、当時東京進出を成功させておりタモリ、ビートたけし双方と何度も共演し、肩を並べる存在になりつつあった明石家さんまがそのポストに当てはめられるようになったそうです。
1988年~1999年まで年末年始に放送された新春・特別番組『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』などで『BIG3』の名称が使用され、これ以降『BIG3』はさんまを含めた3人を指すようになりました。


-タモリ-
1945年8月22日生まれ。
本名:森田 一義。
地元福岡で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職業を経て、ジャズピアニストの山下洋輔(先見人)や赤塚不二夫らと出会ったことなどをきっかけに上京、30歳で芸能界入りを果たしました。 1980年代後半以降、ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人「ビッグ3」の一人として認められています。 現在は、テレビ番組やラジオ番組の主にバラエティ番組の司会業が中心で中には長寿番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』『笑っていいとも!増刊号』『タモリ倶楽部』『ミュージックステーション』といった25年以上続くレギュラー番組が複数あります。 司会者として聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴があり自ら「省エネ司会」「エコ司会者」と言ってはばかりません。 特に『いいとも!』の総合司会者として世間に知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されています。 また、料理や船舶、鉄道、坂道等と多芸・多趣味で知られ、それらの知識を駆使して独特なユーモアを創り出しています。

タモリ自身「30歳までは何をやってもいいが、30歳からはちゃんとしたことをやっていかなければならない」と考えて自分はお笑いの道に向いていると確信し、芸能界入り。 新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京。 開かれた独演会では「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎ら臨席した全員を感動させたそうです。

臨席したうちの一人漫画家の赤塚不二夫は「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させました。 バーでの一件の直後、赤塚が出演する『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』の生放送にそのまま連れて行かれインチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせたところ、たまたま当番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰? すごいじゃない」とその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心したと赤塚がコメント。 その直後、芸能界入りの前のサラリーマン時代に『徹子の部屋』に初出演。
タモリの赤塚不二夫宅での居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションで車はベンツのスポーツタイプが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡されるという破格のものでした。 赤塚本人は下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていたそうです。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろうとタモリも認め、大恩人だと語っています。
1975年30歳で芸能界入り。
東京12チャンネルの深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』内のタモリ専用のコーナーで芸能界デビュー。 その後、日本テレビ系列の棚次隆プロデューサーの目に留まり『金曜10時!うわさのチャンネル!!』でレギュラー出演の座を獲得し『オールナイトニッポン』で人気を不動のものとします。
『ばらえてい テレビファソラシド』では、人気を得ていたとはいえ毒のあるキャラクターから制約の多いNHKには不向きと思われていたそうですが、タモリのインテリジェンスが番組の性格と一致するということ、そして進行役の永六輔の後押しもあり、番組に起用。 当初はゲスト出演で得意のハナモゲラ語やスキャットで女性アナウンサーと絡んだり、イグアナの物真似をしていましたが、その後レギュラーとして定着。
番組後期は、永六輔とともに『ばらえてい テレビファソラシド』の顔的存在となりました。
NHKでは1980年代に『ウォッチング』で司会を務めたほか『第34回NHK紅白歌合戦』では総合司会を務めています。 その後の約20年間はNHKへの出演は特集番組などのみでしたが、2008年からは冠番組である『ブラタモリ』がスタートしています。


雛壇芸人とされる主なお笑いタレント




アンタッチャブル 山崎
勝俣州和
次長課長
品川庄司
カンニング竹山
土田晃之
バナナマン
ビビる大木
FUJIWARA
フットボールアワー
ブラックマヨネーズ


小ワザ



雛壇芸人として成功するために、多くのお笑い芸人は小手先のテクニックを用いています。

・「裏回し型」の雛壇芸人は、自然な進行を促しています。
例えば、芸人の司会者は自身が笑いを取りに行くことが多いので雛壇芸人は司会者にネタを振る程度でいいのですが、アナウンサーなどのお笑い系ではない者が司会をする場合は、フリートークに慣れていない司会者 の代わりに雛壇芸人が共演中のタレントに話を振ることが多いです。

・土田晃之曰く「雛壇芸人には、空気を読むことが要求される。たいがいの新人芸人はフリートークでは『このネタを話せばウケるだろう』と思って構えて話すが、その場合ウケないことがほとんど。でも、空気を読んで話すべきことを自然な流れで話すと自然とウケる」と話しています。

・雛壇芸人は露出を増やすための工夫をしているようです。
雛壇の後列に位置するためカメラに映りにくく、その上自分の映った映像がカットされてしまうことが非常に多くあります。
ゲスト出演する大御所芸能人のトークはカットしづらいということを見越して、大御所のトークが終わると同時に自分のコメントを重ねると、編集作業の際にカットが難しくなり自分のコメントもオンエアにのりやすくなります。他の芸人のトークで、さほど面白くなかった話でも大声を上げて笑ったり、軽くツッコミを入れたりすることで笑いに結びつけるなどトークおよび自分の笑っている顔までもオンエアされることを狙います。

・VTR鑑賞中に「あ~」「へぇ~」「なるほど~」と感嘆してみせることで笑いとは関係ないがワイプに映し出され、また場合によっては音声もオンエアーされる場合もあります。
また場合によっては教養番組のようなゲストのリアクションが欲しい番組で起用されることもあります。

・ものまね番組でほかのタレントや芸人が歌を披露する間、大袈裟過ぎるくらい楽しそうに体を動かしたり、歌詞を口ずさんだり自分が熱唱するフリをします。
これによって歌の途中、タレント席の様子が映る際使われる可能性が大きくなります。特番がほとんどで拘束時間が長い割に安定した出演時間が限られている番組ならではの工夫です。

・非常にわかりやすい一発ギャグやその芸人ならではの言い回しがある場合は、天然・自由演技型の雛壇芸人として比較的重宝されやすい傾向にあります。
これらの小技やトーク番組での立ち回り方については、バラエティ番組の共演の多いグラビアアイドル達の間でも模範となっており、グラビアアイドル同士で集まっては後輩達とも日夜話し合っていることが多いそう です。


ひな壇芸人



数名以上のゲストが集まるテレビのトーク番組バラエティ番組において、準レギュラーあるいはそれに類する頻度で出演するお笑い芸人のこと。
複数段になっている雛壇の後方に座る事が多いため、この名称がつけられました。 「にぎやかし」とも言われ、同義語に「がや(芸人)」、また番組の補佐役という観点から「アシスト芸人」と呼ばれることもあります。 邪魔にならないように笑いを取って番組を盛り上げたり、司会者の進行をスムーズに促して番組の手助けも行ったりもします。 今田耕司、東野幸治は雛壇芸人のお手本的存在と言われていますが、自らのレギュラー、司会などを多く持っています。 高田純次、関根勤、渡辺正行、ラサール石井、大竹まことなどのベテラン芸人は雛壇の前列に座ることが多いため、雛壇芸人ではありません。

テレビ番組において雛壇が多用されるようになるのは1985年4月に始まった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の頃からで、メインキャストの左右と上段にサブキャストが座り、VTR明けなどのトークで掛け合いをするスタイルが定着したあたりからだそうです。しかし当時は単に「雛壇状」に出演者席が配置されていたに過ぎず、「雛壇芸人」という概念もなかったそうです。 『雨上がり決死隊のトーク番組 アメトーク!』2006年3月20日放送回で、品川庄司の品川がプロデュースした企画『ひな壇芸人』が放送。 雛壇芸人を集めて雛壇芸人ならではの技術について解説するといった内容でした。 この企画に対しての視聴者の反響は大きく、この回の放送以降多くのメディアに取り上げられ「雛壇芸人」というジャンルが名称と共に広く知られるようになり、年々増加するお笑いのジャンルから新ジャンルとして追加されました。 『雛壇芸人』というジャンルが一般に知られるようになって以降、若手だけでなく中堅でそれまでリポーターなどで活躍していた芸人の中でも話術のある芸人や、滑ってもわかりやすいキャラクター、一発ギャグを持っている芸人など、雛壇芸人としての出演が多くなっています。

もともと雛壇は若手芸人の指定席ともいえたが、近年「雛壇芸人」と呼ばれる専門の技術を持った中堅クラスの芸人が台頭してきたために、若手芸人にとってはチャンスが激減している傾向にあります。ある程度知名度を獲得した芸人はバラエティ番組の雛壇に座り、トークを無難にこなして初めて次のステップに進むというのが現在の流れでは規定のコースとされています。 しかしその場でのトークはその芸人がこれまで培ってきた芸とは別の能力を必要とするため、雛壇で玉砕してしまうケースも多くあります。 このように雛壇は、芸人がバラエティ番組に向いているかを評価される芸人にとっての「分岐点」となっているのです。

雛壇芸人として高評価を得た者が、レギュラー番組や進行役や冠番組を持つケースもあります。 その例として代表的なのは今田耕司、東野幸治、くりぃむしちゅーなど。 そのため、雛壇芸人としてのポジションに誇りを持ってやっている芸人も多く、品川祐は「雛壇から早く上(司会者)に行きたいのが本音。しかし雛壇で経験を積むうちにディレクター的な視点から番組を見られる様になった。カンペの指示が届かない所に自分のようなのが1人いると、司会者の方に“助かった”と喜んでもらえる。」と発言しています。


関西芸人と関東芸人



関西芸人は文字通り、関西を地盤とする芸人です。
基本的には関西弁を使っています。 東京で活動していても、関西出身であれば関西芸人と呼ばれます。
一方、関東芸人は狭義には関東地区出身の芸人を指しますが、関東地区出身者でなくても関東で活動していればこう呼ばれます。
しかし、東京でデビューした関西出身者や関西人と他の地域の出身者とが組んだコンビなども存在すること、また関西ローカルで放送される吉本興業系の番組では上京してからデビューした芸人や大阪でデビューした後に上京し現在は東京に所属している関西弁芸人を「関東勢」に括り、生粋の大阪所属芸人のみを「関西勢」とすることも少なくないため、どちらに属すのかの基準は曖昧な部分も多いです。
このような用語は関西では吉本興業を中心として伝統的にお笑いの文化が根づいているという事実を反映していますが、元々は上方落語と江戸落語の区別に端を発していると言えます。


司会業



1980年代頃からお笑い芸人の司会業への進出が目覚しく、お笑いブームになると明石家さんま、島田紳助、山田邦子などの大御所ばかりではなくタカアンドトシやオリエンタルラジオなどの若手もメインの番組で司会を務める事が多くあります。
これをフジテレビジョン編成制作局バラエティ制作センター部長の吉田正樹は「お笑いブーム以降、テレビ局にお笑いのテイストが欲しいと考えられた」と語っており、加えて「90年代に吉本興業が本格的に東京進出してから、芸人がMCを務めるという関西の文化が輸入されたのではないか。」と吉本興業の存在が深く関っていると述べています。一方、芸人はより上を狙う意味で番組を仕切る司会者を目指す人が多くいます。制作者側と芸人本人のニーズが合致した結果、芸人が司会を務める事が多くなって来ました。